昭和49年05月16日 朝の御理解
御神訓 一、「要心は前からたおれぬうちの杖ぞ。」
是をこのまま頂ますと、言うなら金光教的ではないと私は思うですね。何故かと言うとその次に「悪い事を言うて待つなよ、先を楽しめ」とある。続いて「要心は前からたおれぬうちの杖ぞ」「悪い事を言うて待つなよ先を楽しめ」色々要心深い人があります。病気した時の要心、どんな難儀な事やら困った事やらが何時起きるとも限らない。どんな災難に遭うやら分からん。
そう言う時に慌てんで済む様に準備をしておく、と言う風に是は聞こえます。成程貯えなどしてはいけないと云う事ではない。けれども、それは何か悪いことを想像しながらの事であってはならないと思うです。これは大変デリケートなことですけれども、「悪いことを言うて待つな」と言う風に教えて居られますね。確かに、悪い事を想像しただけでもいけないと言う事なんです。ある人は、新聞なんかに沢山薬の公告が出ていますね、宣伝が、あれは読んではいけない。
例えばこう云う良い新薬が出た、是はこう云う例えば病気に効くんだと云う様な効能書きが書いてある、そう云う様な物は見てはいけない。悪い事を想像するからです。是に書いてある症状が自分と様似たとこがある。自分が例えば癌なら癌じゃないだろうかと云う様に想像する。そうすると癌を形成する。自分の心からそれを創る様な、不思議な働きがあるんだと。防火週間なんかと云う物がありますね。
その週間に入って、かえって火事が多いと言った様な事実がある事ですね。用心せんならん用心せんならん。火ども出しちゃならん火ども出しちゃならんと言う様な、そう云う週間に入る。住民としたらそう云う期間には、そう云う何時どこで火事が発生しても、すぐ消し止められる様な準備がある。いわゆる用意おさおさ怠りないと、云う様にしてあってもです。どこにか粗そうがある。そしてかえって大火事と言った様な事が、皮肉なようですけれども、そう云う様な事の様な事実があると云う事。
そう云う事を私は「悪い事を言うて待つな」と云う風に教えてあるのであるけれども、今日の「要心は前から倒れぬ内の杖ぞ」火事になった時の要心、病気になった時の要心普通のまあことわざ的な事柄ならば、そう云う風だろうと思うですねえ「要心は前からたおれぬ内の杖ぞ」金光様の信心は、私はそうじゃないと思う。昨日も四時の御祈念の後に、上野先生が『善』と云う事を頂いた。
善導寺の善ですねえ般若心経の中からと云う風に頂いた。私もそれと同じ様な事を頂いておりましたからその話をさせて頂きました。同じ「善」と言うても例えば仏教的思想と言うか、支那あたりの思想から来る所の「善」と言うのはもう定まっておる。決まっておる。こうする事が「善」だと言う、こうする事は「悪」だと言う風に決まってるんです。ところが、お道の信心で言う「善」と言うのは決まってないんです。
例えて言うと、私なら私が十年前に「是は悪い事だ」と言うておる事が、十年後の今日は、「それは有難い事だ」と言う風に、問題はこちらの心が進展しても、こちらの心が育って参りますとね、それは今まで「悪」と言うておった事は、もう「善」として感じ取られるものだと言う。その辺の所がです。今日の御理解の方に当てはめるとです「要心は前からたおれぬ内の杖ぞ」なるほどに。
それ所じゃなかろう。矢張り何でも言うならば、さあいざ火事と言う時に防火訓練なんかが出来けておればスムーズに行く、それが言うならば善なら善である。けれども本当の事が段々だんだん解って来るとです。そう云う事をすると本当にそう云う事を、呼ぶ様な結果になると、言う様な考え方が出来る様になる。十年前悪い事だと思うておった事が、十年後には同し事柄で心が育って参りますと、それは良い事になるのです。
只もう観念とか定まった物としての仏教思想界などから来ると、悪い事は悪い良い事は良い「善」と「悪」とはっきりしている。又修養と言った様な観点から見ると、矢張り善悪ははっきりしている。所が生きた宗教と言って、私はお道の信心をさして頂いて、段々判らせて頂く事は、矢張り一つの信心は悟りなのだから、悟りの境地の人が悪を善と言い、又はでない人は悪をやっぱり悪と見て居ると言う様な場合があります。
ですからこの「要心は前から倒れぬ内の杖ぞ」と「悪い事を言うて待つなよ先を楽しめ」と、是は楽観的なと云う事ではないですけども、神様を信じて疑わない、おかげにしかならんと云う風な感じ、頂き方と言うのが、悪い事を言わんで済む、いやその時はその時でおかげを頂けばよい。昨日も妹が銀行に月に五十万づつ、なんか積み立てをしとく様に若先生が約束している訳です。
それは十年の記念祭の時の為の積立を約束しているから、五十万円銀行に預けたと言う意味の事を言いますから「馬鹿んごたる事ばっかり言うねえ」と言うて申しました事ですけれども。言うなら、まあその時に一遍にすると大事じゃから、今からでも五十万ずつでも貯めときゃ、二年すりゃあ一千万余りですか、だから記念祭が安心してと言う、色んな倒れぬ内の杖である。
合楽の場合なんかは、もうこの行き当たりばったりで、悪い所ですけれども、もうその時はその時で神様がちゃんとおかげを下さるんだと、こりゃもう確信してる訳です。だから「そう云う事はいらん」とこう私は言うんです。只どちらが本当と云う事は言えないけれども、どっちとも言えないけれども、矢張り心がそれだけ成長してからの考え方は、普通の人の考え方は若先生の考え方であり、信心の心を少しづつ進めて居る者の考え方は、後者の私の言う事が本当だと云う事になるのです。
「そん時ゃそん時たい、どうとかなるがの」そう云う様な、投げ遣りのもんではないのです。そこで私は思うのですけれども、そう言う私は程度の低い普通のもんの言う様な言葉を使って、この教えにしておられると云う事は、是はやはり信心させて頂く者は、信心させて頂く者として頂かなければならない御教えだと思うです。「要心は前から倒れぬ内の杖ぞ」今、御本部ではもう随分なりますけれども、参拝しますとあの災害の、災害が各地で起こった時に、お金を贈るために災害募金と云うのをやってますね。
私はそれはもう二十数年前の本部月参りをしておる時分から「そげな事いかん」と私言いよったんですけども今も続いてる。金光教的ではないんだと、いわゆる倒れぬ内の杖で、本部でなさっておる事です、それは信心の無い者でもまあ、それは成程それは本当に、それはその時だからおかげで、と言う様な事を、是は普通の人の考え方なんですね。そげな事よりも、そげな事の起こらんごと願うたらいい。
もし万一そう云う時には、本当に神乍の御繰り合わせ頂いたらいい、と言うのが私の考え方ですけども、それの方が大体は金光教的だと云う風に私は思うです。ですからこの「要心は前から倒れぬ内の杖ぞ」と云う事も、信心の無い者の言い方として、言わば教えておられますけれども、是は信心をさせて頂く者の受け取り方を以て、是を受けて行かなければならない。
その言わば証拠には次の「悪い事を言うて待つな」と言うておられる。災害募金なんかと言う事も、悪い事を言うて待ってる酔うなもんです。だからまあ私はそう言う観点に立ってです。この是は金光教的な御教えではないな、教祖にも似合わんなあと言う風にも言えるんですけれども、教祖はもう一つ深い意味に於いて、只そう言う言葉が俗な言葉を使われて居るんだと言う風に思うです。
「用心は前から倒れぬ内の杖ぞ。」と。そこでです。なら私共がこう日々信心生活させて頂いていて、何時どの様な事が起きて来ても、その時に慌てず驚かんで済むだけの信心の杖を付いておけよ、頂いて置けよと云う事に、頂きますとぴったり、金光教祖がそう言う意味で教えられたんだ、そう云う事になって来る時に、金光教的な御教えだと言う事になる様に思うです。泥棒捕まえて縄なうと言った様な事。そう云う風に是はまあ聞こえますけれども、実はそうじゃないと思うです。
「要心は前から倒れぬ内の杖ぞ。」とその次にはもう「悪い事を言うて待つなよ」とこう言うておられる。矛盾してる訳です。倒れぬ内の杖と云う事は、悪い事を言う事でしょう。悪い事が起きると仮定してでしょう。そこで教祖様の表現はただ俗に言う、諺を引用されただけであって、本当は信心に是を当てはめなければならない。何時どの様な事が起こって来ても慌てんで済む信心を頂いて置けよと、いわゆる「金の杖を付けば曲がる、木や竹は折れる」当てにはならんぞと。
「神を杖に付けば楽じゃ」と仰る。神を杖に付けるだけの信心を頂いて置けよと言う風に頂かなければ、是は金光教的な御教えとは言えない事になって来るのです。決してためてはならんとか、どうこうと云う事では無いですけども、このまあ今日は微妙なまでの一つの事柄と言うか、例えば薬の公告は見るだけでもいかん。自分で自分の病気を創れる結果になって来る。防火週間なんかに入ると却って火事が多くなる。だからろくそうにせろと云う事ではない。
けれどもそう言う一つの不思議な働きがあると云う事です。そこで是を純信心で参りますとです。成程薬の宣伝と言った様な物でも、見らん様な心遣いが大事だと云う事にもなりますし「要心は前からたおれぬうちの杖ぞ」と。例え病気しても悪い事を言うて待つのではなくて、それこそ隅田先生じゃないけれども「信心しよって病気するですか」と、もう病気はしないものだと確信が持てれる位な信心を頂く事だと。
そしてもし万一病気をしてもその時はその時で慌てんで済む、シャンと倒れんで済む、言うならば要心の神の杖、言うならば信心の力を養うておるから、尻に火が付いた様になってから、やあやあ言って神さんに参って来るちゅうのはもう遅か。そう云う事になる前に、ちゃんと確固たる信念の持てれる信心を鍛うておけ、培うて置けよと言うて事だと云う風に思いますね。
どうぞ。